遅すぎても、支援は必要です。あきらめないために。
最近になってようやく、政府や自治体が氷河期世代への支援を打ち出すようになってきました。
しかしその一方で、「今さら意味があるのか」「自分はなんとかやってきたから、支援はいらない」という声も耳にします。
そのような意見に対して、私は少し立ち止まって考えたいと思います。
果たして、本当に支援は「もう遅い」のでしょうか。
◆なんとかやってきたことは、誰にでも可能だったのか?
「自分は苦労して乗り越えたのだから、今さら支援される人がいるのは不公平だ」という意見もあります。
でも、その「なんとか」の裏側には、どんな環境や支えがあったのでしょうか?
たとえば、家族の支えがあった方、学費を出してもらえた方、健康に恵まれていた方。
また、たまたまタイミングよく正社員になれた方や、人との縁に恵まれた方もいるでしょう。
一方で、そうした支えがなかった人たちが、不遇の中で立ち止まらざるを得なかったことも事実です。
それは決して甘えではなく、環境や運、構造の問題でもあります。
努力できる環境があったかどうかは、大きな差です。支援とは、そうした見えにくい格差を埋めるための仕組みでもあるのです。
◆30年間、自己責任の名のもとに見捨てられてきた
1990年代後半から続いた就職氷河期。
その中で多くの人が、非正規雇用や長期の無職状態を強いられました。
社会全体として「努力すればなんとかなる」「失敗したのは自己責任だ」という空気が支配していましたが、
それはあまりにも一面的だったのではないでしょうか。
正社員の求人自体が少なく、非正規が当たり前の状況で、誰がどうやって抜け出せたのでしょうか。
新卒一括採用のレールから一度外れただけで、社会復帰が困難になる構造自体に問題があったはずです。
今からでも、状況を少しでも改善するために、社会全体で支援に向き合っていくことが大切だと感じます。
◆学び直しや再挑戦は「今さら」ではなく「今から」
中高年になってからのリスキリング(学び直し)や職業訓練について、
「そんな年齢で今さらやる意味あるのか」という声があるのも事実です。
ですが、学び直すことに年齢の壁はありません。
それを可能にする制度や環境こそが、これからの日本社会に必要なものではないでしょうか。
経験を積んだ中高年だからこそ、学び直すことで社会に還元できる力があります。
希望を持って挑戦できる環境を整えることは、個人のためだけでなく社会のためにもなるのです。
◆若い世代への投資と氷河期世代支援は対立しない
限られたリソースをどう配分するかという議論で、「若者こそ支援すべきだ」という意見が出てくるのは自然なことです。
ただし、氷河期世代の安定もまた、若い世代の負担を軽減する一因になります。
たとえば、親世代の生活が安定していれば、若い世代が経済的支援を強いられることも減るでしょう。
世代を分断するのではなく、つなぐ発想が今こそ求められています。
つまり、氷河期支援は将来世代への間接的な支援でもあるのです。
◆「やってる感」で終わらせないために
支援策の中には、制度として不十分だったり、実効性に疑問が残るものもあるかもしれません。
だからこそ、当事者である私たちが声を上げ、必要な支援のあり方を社会に問いかけていく必要があります。
たとえば──
・働きながら学べる制度の拡充
・長期的な就労支援と職場定着支援
・生活の不安を減らすための基盤整備
単なるパフォーマンスではなく、実効性のある施策として定着させるためには、当事者の意見と現場の声が欠かせません。
こうした仕組みづくりを推し進めていくことで、ようやく「支援」が本当の意味を持ちます。
◆支援は恥ではなく、回復のチャンス
何十年も見過ごされてきた世代に、ようやく届き始めた支援の流れ。
「今さら」と引いてしまう気持ちもあるかもしれません。
ですが、それは諦める理由にはなりません。
支援されることは恥ではありません。
生き直す権利を行使することです。
私たち氷河期世代は、ずっと静かに耐えてきました。
でも、声を上げることで初めて変わることもあります。
いまさらではなく、いまから。
氷河期世代は、未来の中で生きていくべき存在です。
あきらめずに声をあげていきましょう。